[ 2006年 11月 ]

11月01日 (水)  

いじめ、自殺、手紙、中学生・高校生から教師、校長先生までが自らの生命を絶っている事件が相次いでいる。
そして必須科目の未履修、次から次へと連鎖的に、事が起こる。

悲しい・・・とにかく悲しい。もう見たくない。だけど哀しい。

岐阜の中2の女の子のお父さんは立派だなと思った。
「とにかく最後までSOSを発進し続けてほしい」
・・・自分の可愛い娘を亡くしたばかりなのに、全国の今いじめを受けている人たちへのメッセージ。

ほんとうに・・・その通りなのだ。「だれでもいい・・・SOSを出していくこと」
しかしいじめられている本人は、どうしても親にも誰にも相談しにくい気持ちがあるのは、わかる。
普通、いじめられている時の精神状態では親にも、そのことを話すのは恥ずかしいし、相当追い込まれていないと相談できない。相当追い込まれてるから誰にも相談できない。

だけど「SOSを出していくこと」・・・必ず全力で行動してくれる人がいる。
親であれば、それは当然だし・・・どんなことがあっても生命・身体を張って守っていく。
自分にとって嫌な大人もいることも確か・・・しかしみんながそうでない。まんざらでもないのだ。

もうひとつ・・・自殺なさって、ほんとうに苦しかっただろう、ご家族もいまもほんとうに苦しいだろう。
しかし、どんなことがあっても自分で自分の生命を絶つことだけはしてはいけない。
苦しいだろうけれど自殺だけはしてはいけない。それが生徒だろうが校長さんだろうが・・・。

ほんとうにこの国は、自殺者が多い。年間約3万人。戦争地帯よりも圧倒的に多い。

その中でも多いのは40代、50代である。ニュースにもならず亡くなっていく人たち。
手紙を残して亡くなっていく少女・・・二ユースは劇的だからこちらを取りあげる。
同じように小さく扱われて鹿児島で亡くなっていった女性教員。どちらも生命の大きさは同じ。
子どもであろうが大人であろうが生命の重さには変わりない。

言っておきたい「どんなことがあろうとも、自らの命を絶つのは良くない」

単純すぎる・・・気持ちもわかるけれど良くない。良くないとしか言えない。
必ず助ける、助けてくれる人がいる。
あえて言っているのは、大きなお世話だけれど、2極化している気がするからである。
亡くなった少女は正しくて、それを見逃した先生、校長、教育委員会は・・・・・
犯人探しだけをしている。誰が悪いかだけを追求している。
みんな一生懸命生きてるし、働いている・・・それでもいじめは起きる。
人間の刹那にも通じる課題・・・
ただただ今の教育が悪い、学校が悪いと言っても解決しない。

すごく見たくない複雑な想いのニュースが続く。
春の秋田の事件はどこ行ったの? 豪憲くん両親は、この秋どんな想いでいるのだろう? 
永田議員のメール問題はあれで解決したの? マンション偽装事件は、あの会社とあの設計士だけの特別な事例だったの?
まだまだ危ないマンションはたくさんあるんじゃないの? 
国土交通省は、あの会社や設計士とかだけで終わらせようとしているんじゃないの?
ホリエモンを捕まえて、村上ファンドを消して・・・それらの問題は解決したの?
昨年の12月に起こった栃木の小学生誘拐殺人事件の犯人はまだ捕まってない。
その前の年に起きた僕の故郷の近く広島県廿日市市で起きた女子高生殺害の犯人もまだ捕まってない。
次から次へと事件は起きて、テレビはそれを報道して、次の事件が起これば、今回のことの発端の北海道での少女自殺事件も報道されない。次から次へとゲームのように報道され検証もされず流れていく世の中?

どうなのよ?

世界史未履修のこと・・・どうでもいい教科かもしれない。ぼくも高校時代何を学んだか覚えていないし、どうでもいいかもしれないけれど・・・卒業できないとか、この受験前に補習70時間とかではなくて、やはり覚えてなくてもいいから、世界史の触りだけでも何となく聞いておく必要があると思う。

なぜ北朝鮮が存在するの? なぜ北朝鮮が核を持っているの?
世界史の中でも近代史になると思うけれど、ベースは米ソ冷戦時代にさかのぼるわけだし、その前は第2次世界大戦だし・・
そんなことを何となくでも高校時代に聞いておいても損はない。

米ソが冷戦の時代・・・競って力というバランスを保とうとして莫大な核兵器が作られた。
米ソ冷戦が終わって、核拡散を必死に防ごうと思ったアメリカだけれど、旧ソ連の科学者たちは失業した。
せっかくの知識と技術・・・それを欲しいと思っている小さな国は山ほどある。
それが今世界中に核技術が広まっている根本・・・北朝鮮だけではないよね。
イランもパキスタンも核拡散では同じ道を歩んでいるよね。ただ単純に隣国の狂った北朝鮮が持っただけではないよね。
そんなことを、なんとなくでもいいから高校生・次世代に伝えていくことが必要だと思う。

解決の方法なんて、わからない。だけれどまず簡単に伝えていくこと。忘れないこと。
そして世界も僕たちもいじめ、いじめられながら悩みながら生きているということを素直に伝えていくべきだと感じる。
悩んでいるのは君だけじゃない。
みんな、大人も社会も悩みながら・・・それでも少しずつ幸せの方向に無駄かもしれないけれど、ない頭で進もうとしていることを素直に伝えていくべきだと思う。

ホテル「ルワンダ」という映画を見てほしい。各国の都合によって、虐殺が起こっていることから目を背け、引き上げていく兵士を・・・そこで何も出来ない国連軍を。だけれどその国連軍の中にも素晴らしい人物がいることを・・・すべての世界はあらゆる利権で動いていることも。
スーダンも何故安定しないか? そこは単純には言えないけれど、石油利権が関わっている。いまは中国がパイプラインを握っている。高度成長の中国は資源が必要なのだ。だからこの春も中国主席はアフリカを歴訪した。

だから単純に・・・中国が悪いと言っているのではない。
単純ではないのだということ・・・ホテル「ルワンダ」という映画を観てほんとうに考えさせられた。
そんな時間を持つことも必要だと思う。子どもたちに伝えていくことも必要だと思う。

もっと人間・・・少しずつ少しずつタフにならないととも思う。

ものすごく何もかもが曲がってきているように感じる。学校で起きたことは最高責任者の校長が責任を負うにしても、何百人もいる生徒のディティールなんて校長が知ってるはずもなく、ただ責任者が状況も知らず立場上出てるだけのことであって、ほんとうは担任やクラブの顧問が表立って記者会見しなきゃいけないよ。

それでもって国会では「美しい日本」づくりの為の、教育基本法の改正。
愛国心・・・我が国を愛し郷土を愛することを育むこと。

正しい・・・自分が生まれた郷土や国を愛すること・・・正しい。

だけど、ぼくの中で・・・何かしっくりこない違和感も生まれる。
「愛国心」もいいかもしれないけれど、こんなに情報や人が世界中に行き来できている時代では、ぼくは「愛世界心」だったり「愛地球心」だったり・・・えーい「愛宇宙心」だったり、えーいえーい「愛生命心」でいいと思う。

教育基本法を改正するのなら「愛国心」ではなく、「愛生命心」でいいのだと思う。

今の子どもたちに、最低でも僕の子どもに伝えていきたいのは、自分の生まれた郷土や国を愛すると同時に、自分たちが生まれてこなかった地域や国や人々と繋がっていくことだと思う。自分の国や故郷を愛すると同時に違った文化や風習や国を認めあうこと。人との違いや国それぞれの違いを伝えていくこと。そのことを伝えていかなくっちゃいけないんじゃないの?

だから世界史も大事だし・・・いじめも自分とは違った感覚への排除だと思う。
自分の愛する郷土を伝える為には、相手の愛する郷土を学び出来るだけ愛することだと思う。
自分とは違った郷土や国を学び、できれば実感することだと思う。

自分だって、なかなか出来ない。インドに行った時も「この国・・・最低」と怒鳴ったこともある。
しかしインドに行った理由は、そこから学ぶべきところがあるから・・・すべて自分の国や地域の価値で推し量れるものではない。インドにもほんとうに尊敬できる文化や風習がある。その違いを認めあってからのスタート。

だから尚更・・・自国への「愛国心」だけをクローズアップする心には違和感を感じる。
ここまで進んできた文化・文明なのだから、相手が核を持ったらこちらも持つというような考えではなく、相手の気持ちを理解する気持ち・・・地球は一つなのだからという気持ち。大切に握りしめていたい。

すごく答えなどない切ない夜を勝手に過ごしている・・・「Blowin' In The Wind」 答えは今もまだ風に舞っている
か・・・?

まだまだ適切に言い表してないと思う。
いくら悩んで廻ってみても結論なんて出ないかもしれない。
この日記を書き始めた時に、またまた親友から電話があった。
夜中の12時近く・・・友は酔っぱらっている。ぼくも少し飲んでいる。先日の友達連続電話作戦には、たまたま入っていなかった。しかし彼は「どうせ、俺は大事な親友の中に入っていないんだよね」と冗談を口にする。「あっ、そんなことはないよ。ただあの時忘れてただけ・・・」「たどり着かなかっただけ」と、ぼく。

そこで今回書いたようなことを話す。「そんなこと日記に書かなくていいんじゃない・・・内藤くんはあくまで写真屋なのだから・・・」、「写真屋でも書きたくなったものは書きたい」と僕。話はまた違う方向に流れていって2時間あまり話した後切って、この日記を書いている。全部書いてきたことを消して姿をくらますかとも思うけれど、せっかく書いた文章なのだからもったいないといい加減な僕は、また垂れ流してしまう。このことで傷つく人を出したくもないし・・・そうやっていちいち気を使ってしまう。だけど出してしまう。先に謝ってしまおう。嫌な想いをされた方がいるとしたら、ごめんなさい。

だけれど、最低ぼくは自分の可愛い大人になった娘と、まだ中3の息子に言いたい、伝えていきたいだけのこと。
いや・・・それから広がる地域の子どもたち、先生方、大人たちである親、そして中国の与那国の韓国のアフリカのイラクの・・果てしなく続いていく、どこがで融和できる一瞬があるはずだと感じて生きているだけのこと。

もちろん・・・志半ばで去っていった友のことも想いながら。だからごめんなさい・・・こんな日記になってしまって。

それではまた・・・明日と言うか今日も僕は元気に飲みにいく。さっき先週忘れてた親友と約束したからね・・・。

このまま、日記をアッブしてしまっていいのだろうかと悩みながらアッブする。

そしてもう一杯・・・ぼくはボブ・ディランを聴く。



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追伸・・・言い訳でもなんでもなく、ぼくも中3の時に、たぶんイジメにあった。
47歳になった今も、左の肋骨の肌にくぼみの傷あとが残っている。
えーと自慢しているわけではない。だけれどその当時、当然親には何も言っていない。今も知らない。

ぼくは中3の新学期をきっかけに広島市内から約20Km西の町に引っ越した。
当時の僕にとっては市内育ちのシテイーボーイの僕にとっては、とっても遠くて目の前真っ暗の転校だった。
しかも校則が坊主・・・ぼくにとって許せるはずがない。

「おれ、サッカーやってきたんだよ。俺の髪はイングランド・リバプールキャプテン、ケビン・キーガンが教えてくれたものだよ」
「おれ、よしだたくろうを聞いてんのっ!! あの肩まで伸びた女の子みたいな髪型が好きなの。音楽が好きなの。何を言っているのかわからんけど、カッコイイと思ってんのっ!!」
と思ってみても田舎の先生がわかってくれるはずもなく、当時はロックではなくて、フォークやっているだけでギター持っているだけで、不良とされていた時代だから・・・ナサケナイ・・
却下の前に考える余地なし。だけれど意気地なしの僕は、シティーからの転校生は坊主が恥ずかしくて髪を切れなかった。
そのまま春の転校、1学期に突入・・・イジメが始まった。

当たり前だよね。みんな思春期の好きな娘のひとりでも表れようとする時期にボウズだものね。ひとり長髪なんて許すはずがない。
ぼくはある時・・・体育館に呼ばれ同級生数人にボコボコにされた。
後で考えると、そのとき肋骨が折れていたんだよね。バカだからその時は痛いだけで気付かなかった。当然親にも先生にも言ってない。でもやばかった。

一学期が終わる頃、俺をいじめた不良どもより、僕の長髪が問題になった。夏休みに入った学校で母親と僕が呼ばれ、校長先生、担任の先生・・・それと当時は何がなんだかわからなかったけれど学校では見たことのない偉い大人の人たちが3人くらい・・・教育委員会の人たちだった。そして5対2くらいで話した。
「内藤くん、2学期からは髪を切って坊主にするように」・・・ぼく「嫌です」「かっこわるいし嫌です」

母にも申し訳なかったことをかすかだけど覚えている。親父が一生懸命働いてやっと建てたマイホーム。
しかし市内からは少し離れた中学ではボウズの地域。母としては夢がひとつ叶ったのに、また問題が・・・

「ぼくは、あくまで嫌です。ひとりっきりになってもいいからとにかく嫌です。」
僕としては週末には長髪の広島時代の友達に会いにいって、それだけでもいいと思った。週5日我慢して、週末は広島の友達に会えればそれでいい。「ぜがきでも嫌だ」を通したような気がする。となりでお袋は泣いていたような気もする。

そして教育委員会の人が言った・・・「内藤くん、髪を切ってくれ。坊主にしてくれ。校則だから。」
yesもnoも言わなかった。
そして次に「来春から、本校も長髪にすることを検討する、だからここは我慢して切ってくれ」
ぼくの中には「来年のコトなんて知るかよ。おれ・・・いないじゃんっ、卒業じゃんっ・・・知るかよっ。」
また・・・沈黙。そして何故か? 了解してしまった。

ぼくは2学期の9月1日、坊主で学校に行った。笑われた。情けなかった。笑われた。
「市内の長髪の友達に、もう会えないじゃんっ・・・こんなボウズで」
だけれど・・・日が経つにつれ、1学期に俺の肋骨を折った悪ガキどもとも話し始めた。
3学期・・・冬の体育の授業はサッカー。とたんに仲良くなった。

固い固い堅物の親父が自分の目の前で坊主にする前に、自分の目の前で、涙を流したというか号泣した。
今は亡き親父だけれど、涙を流しているのを見たのは・・・その1回だけ。

そんな事を、つい先日思い出した。
先月27日付けで書いた中学時代の20年ぶりの再会。
そのなかで「おまえ、転校してきた時は髪があったよなー」
「で、次の年から・・・俺たちが卒業したとき・・・その時から長髪可になったじゃろっ・・・中3の夏休みにそのことは決まっとたんじゃっ・・・」
「へぇ・・・そんなこと知らんかった。内藤がきっかけじゃったの?」
「うん、たぶん・・・そう」

そうだよな・・・当時は自然に誰にも話してなかったものな。で・・・突然思い出したおはなし。
そういう意味でも東京出てきたわずかな人数のしかも二人だけの同窓会・・・ほんの2時間くらい飲んだだけど、相当楽しかった。その同級生も、俺みたいにフラリフラリのフリーと違って、相当社会的に責任ある立場の大人。
ぼくも責任ある大人だとも思っているし・・・いまだに大人なんてクソ食らえっとも思っている。
だけれど実質責任ある大人。

ふたりの子どもはどんなことがあっても守る、守り通すと決意している大人。だけどニュートラルでいたい大人。
大人、人間、こどものズルいことも知っているオトナ。せめて何かをしたい貢献したいと思っている自堕落なオトナ。

オ−11月は、頭から熱いね。長いね。うんざりしたクドいこの日記からまた読者が離れていく。

のかな・・・???  軽く笑って読んでくださいね。


「どんなことがあろうとも、自らの命を絶つのは良くない・・・最後まで諦めないで、SOSを発進し続けてほしい」


11月04日 (土)  

1日は、前の日記を朝方まで書いて、約束通り夕方から親友と会った。
某アーティストのライブを一緒に観た。ほんとにキュートでキュートで心洗われる美しい歌声だった。
それから一番の親友であるプロデューサー、親友のカメラマン、親友のマネージャーと次々に合流。
久々に朝方まで飲み倒し、笑顔・笑顔の楽しい時間を過ごした。
途中シンダツなことも言い合った。しかし、お互いいたわるように時を過ごした。充実した時間だった。
「あーオラ、シアワセ」・・・を心いっぱい、ビールと芋焼酎と泡盛を身体に染み渡らせた。

2日、やっぱり「コトー」で涙を流した。
3日、「夜廻り水谷先生」の番組を見て、あの生命の限りの生き方に、またまた涙がにじんだ。
そしてフジテレビの「泣きながら生きて」という素晴らしいドキュメント番組を見て、涙が止まらなくなった。
内容に触れてると、また先日の日記のように超長くなってしまうかもしれないので・・・
とにかく涙があふれて・・・人間の尊厳や美しい心を、あの中国の方から学べた。ほんとうに美しい一途な生き方だった。

今日は、簡単に・・・これにて。

11月08日 (水)  

昨日は久々にSPITZの撮影・・・その後、深夜まで楽しく飲んでしまった。
やっぱ・・・なんで俺ってSPITZが好きなんだろう? と思いあまって酒を浴びてしまった。
しかも僕は能天気だから、スタッフもみーんな大好きっていう感じで、好き好き光線を出しすぎてしまった。
好き好き光線・・・もったいなかったということで、今月はまだまだ撮影は続く。
内容は内緒・・・言えない。だからまた雲隠れの可能性あり。

ということで・・・今日は、まだお酒臭いまんま午前中に、ある人に会った。
スピッチョは内緒だけれど・・・お詫びに解禁っ!?

これまで春あたりからアフリカ・スーダン話をしてきたのだけれど、そして10月渡航延期になったのだけれど・・・
この際・・・被写体となる相手を公開することにした。
公開してしまうと、ますます後戻りできないし、プレッシャーに弱い僕は逃げ出してしまうかもしれないけれど公表する。

なんとなく気付いてらっしゃる方もいるかもしれないけれど・・・その方は川原尚行さん。
NPO(特定非営利活動法人)ロシナンテスを立ち上げて、単身スーダンにて地道に医療活動をしてらっしゃる尊敬するお医者さんである。詳しい内容は、今日付けで僕のリンクに追加したので、ぜひぜひアクセスしてください。

まだ写真を一枚も撮っていない方を、この時期に撮影する前にご紹介するのは僕としては気が引けるのだけれど・・・
なにせ右も左も上も下もさっぱりわからないアフリカ・スーダンで、どこまで写真が撮れるのか?
アラビア語は、さっぱりわからんし・・・英語でさえつたない僕が・・・紙幣はディナール?
ほんと・・・わからないだらけである。で、細かい砂で室内でも電気製品は壊れていく土地柄らしい。
そこにデジカメ・パソコンを持ち込んでも壊れていくのかな? アナログでいくかっ!!と思考中。
行って結果が出なかったら、どうしよう? とも思うのだが、いいのだっ!!。

(若い頃は、思い立ったらすぐ行っていた。何処でも・・・誰のところでも。しかし年齢を重ねると腰が重くなると言うか、行動した後の結果が、行動する前から見えてしまい・・・それ自体、経験を積んでいるのだから悪いことではないのだけれど、ついつい慎重になってしまう。抱えている物も大きくなっているし・・・だけれど、そんなことに押しつぶされてはいけないと自分を励まし、大人の僕は僕なりに熟考して行動する。スピーディーではないよね。情けない。今も撮りたくなったアーティストがいる。若い時は後先考えずすぐ飛び込んだけれど、今は考える。撮った後のことが見えるから・・・だから無い頭で熟考して、ある意味確信を持って行動する。それがいいのかどうか? わからない。だけれど・・・そうなる。大人になればなるほど冒険しなくなる。そこに負けてなるものかと中年は叫ぶのである・・・面倒くさい中年になったものだ)

そして、恥をさらして生きていく。結果が出るまで何度でも渡航してやるっ!! という意気込みなのである。

で、今日午前中に東京で会った・・・そして1月にスーダン行きを決めた。
まだ彼は帰国したばかり・・・今回約一ヶ月間、講演やまだまだ支援を求めて全国行脚する。
そしてまた12月にはスーダンへ。

ぼくは昨年秋・・・彼のことを知り、半年いろいろ試行錯誤した結果、3月にラブレターメール
(便利な世の中だよね・・・メールが遠くスーダンまで届くんだもんね・・・)を出し、5月に始めてお会いして今回で、3回目。
しかし・・・強烈に惹かれているし、僕の感性の勘!!。
浜田省吾と出会った時もスピッツと出会った時にも感じた感性の勘!!。

約6ヶ月ぶりの再会だったのだけれど、すごく心の底から嬉しかったし、変に・・・やけに慣れ慣れしかった僕。
ほんとうにこれから長い付き合いにしたいと心の底から感じた。
浜田さんとも24年だし・・・スピッツとも17年。小山卓治とも24年。あんべ光俊とも19年。
ぼくは長い・・・先のことはわからないけれど、川原医師ともそんな付き合いができればと思っている。

だから写真屋と被写体の関係を乗り越えても、彼の活動を応援していきたいと強く思っている。
時には運転手でもいい、時には家来でもいい。時には兄貴でもいい・・・弟にもなろう。
だけれど・・・やはり僕が一番役に立てるであろう写真で全力投球で挑みたいと思っている。

昨年秋から今年春までの半年考えていたのは、ここを始めるということは僕の残りの人生の時間をここに集中することであって、しかし音楽写真を辞めることもまったく考えてないし、川原さんを徹底的に撮影していきながら、世界のあらゆるところにいらっしゃるであろう第2、第3の被写体を求めて世界中旅することになる。
一歩踏み出せば、もう戻れないし戻らない。そんな決意を固めるのに半年を費やした。

少し・・・彼・川原尚行さんのことに触れたい。
たぶん今年の4月あたりの日記からアフリカ・スーダンのことについて書き始めたのだけれど・・・あえて川原さん本人のことについて触れなかった。まだ会ってなかったし・・・。

今回いよいよ期が熟したと感じ、紹介したい。
彼は昨年2005年1月まで外務省の医務官だった。そこで彼はいろいろな所に赴任し医療活動・整備に尽力していた。
しかし外務省医務官である以上、転勤もある。スーダンの赴任が終わって、また次の土地へ・・・彼は思った。
スーダンでもっと地道でもいいから医療活動を続けたい。
彼は外務省を辞めた。そして単身スーダンへ裸一貫であるよ。

ぼくの中に「この人は、何を求めて今の職を投げ打ってまで単身行くのか?」・・・興味が沸いた。

ぼくは、このようなことに敏感で惹かれてしまう傾向にある。
それは浜田省吾・スピッツetcの活動姿勢にも、ぼくの中では通じている。

同じ医療でも自分にとっての本当の医療に向かって活動していく姿勢・・・人、やはりそれぞれなのである。

誰の為ではないのよね。自分にとってのあくまでの追求。それが人間なんだと思う。
カメラマンも写真を撮ることでは同じ職業・・・しかし皆、それぞれが自分にとっての写真というものを、あくまであくまで死ぬまで追求していくんだと思う。それがその人の個性になっていくものだろうし日々成長と勉強と反省。

ほんの彼の触りだけ紹介したが、彼のロシナンテスのホームページをぜひ見ていただき彼のことをもっともっと知っていただきたいと思う。そしてぜひっ!!・・・て言っていいかどうかわかんないけれど、彼に協力していただきたいと思う。
ぼくは、やはり全力で写真を撮り、少しずつでもいいから発表することで強く役に立ちたいと思っている。

僕が今回、無謀にも決意した経過は、
4月の日記に書き綴ったり、今月11月1日付けの日記にも関連してて、いじめてる奴・いじめられてる奴たちに、少しでも希望を持って活き活きできることを見つけて生きる夢を持ってほしいと思うからで・・・
ほんとっ僕の微力だけれど、そんな視野を広げられる一助になればと思う。
僕たちの知らないイスラムの世界でもロシアでもアメリカでもイラクでも東京でも北朝鮮でも愛ある暮らしがあって、ひょっとしたら僕らがどこかで置き忘れた大切なものがスーダンにもあるかもしれないし、きっとあると思う。
それは僕が今大好きな沖縄にもあるし、だから僕はスーダンに行ってもスーダンの暮らしを出来るだけ撮影してこようと思っている。人の暮らし、風景の暮らし・空気・・・単なる川原医師の活動ドキュメントではなく彼が惹かれる大いなるアフリカの何か? それを求めて、探りに僕は旅をするのだと思う。

彼は今日、こうおっしゃっていた・・・「僕の医療は、電気や設備があるところで出来ることと、設備や電気さえないところでも、自分の手で感じながら医療していくこと・・・日本の中で学んだ近代的な医療だけでは出来ない医療がある。
そんな恵まれてないところでも患者はいる。そこでどうその患者を診察、治療していき生命を救いあげることが出来るか?」
この言葉だけ聴くと、あー偉い先生なのだと勘違いしてもらっては困る。
ほんとうに偉らそうぶってなくて、少年のような瞳と大人しての責任感に満ちあふれている人なのだ。

ここで言っちゃう・・・「僕は、尚行くんに惚れた・・・」
彼を支えている「六郎さんにも惚れてしまったのよ・・・」
オチャラケテルわけではない・・・そこが原点で、そこがスタートでないと僕は写真を撮れないカメラマン。
まず仕事として写真を1枚・・・って撮れないカメラマン。情けないけど、それがぼくの個性。
しかし惚れたらとことん撮る・・・音楽写真も一緒の姿勢。

なにか・・・自分に対しての決意表明の感情をバラバラに書き綴ってるように思えてきた。
仕方ない・・・昨日深夜まで飲んで、今日午前中に川原さんに会ったものだから・・・イコールあまり寝てない。
寝てても、あまり頭が回らないのに、寝てないからますます頭が廻らない。

だけれど、言いっぱなしをもう少し・・・

で、またまたオチャラケテルわけではない。
昨年秋に、彼のことを知ってピリリって来て、たぶん5月くらいに、ふとっ気付いた。
オチャラケテルわけではない・・・
ひょっとしてここ何年か僕を癒し励ましてくれ何度もダラダラと涙した・・・「Dr.コトー」?・・・
そして15話くらいから見始めて、いよいよ佳境に入った「チャングム」?
チヤングムは当初、宮廷女官で、料理をしてた・・・しかし今となっては何故か? 医女チャングム。
別にお医者さんが好きなわけではない。しかしこの2つの番組には癒され、励まされ・・・今も夢中である。

それをなんとなく5月に気付いた・・・いま現在、実際にいる。実存している。
川原尚行医師の姿勢が、僕にとってはまさに、それなのである。
だからまったく知らなかったスーダンまでも行きたいと心が動いた。・・・のかな? となんとなくシンクロしているのである。

本当にいま現代に必要なのは真っすぐな心・・・自殺していくことで問題提起は出来たとしても、
生きていく・・・苦しくても生きていく真っすぐな心。

今、自殺者が世界でもNO.1のこの国でも、生きていく可能性。
そんな日本という国が出来ること・・・ほんとうに一生懸命、国内の都会・田舎、世界中に働く、生きる日本人がたくさんいる。
せめて僕は、そんな人を伝え生きる力や夢を保ち続け、この米粒のような日本という国がGDP世界で2番目という無理と・・・同時に誇りを体感したいと思っている。
エゴではなくて、日本だから自国の愛国心だけではなく、広く愛生命心が出来るんだとも思っている。

世界から見ると本当に不思議な国と思う・・・資源もなくて、国土は本当に小さいのに奇跡的な発展をしている日本。
だから無理だらけの歪みの中で、僕たちはいま苦しんでるんだろうとも思うけれど・・・。
まだまだ心は発展途上国・・・子どもたちに、僕たちに、そして僕に・・・伝え学んでいきたいことがまだまだある。

「だから死なないで・・・生命ある限り可能性は、まだまだある」

これは、若き少年や少女にだけに言っているのではなく、校長先生や先生や、ぼくら大人にも言いたい。
そして僕自身にも言い聞かせたい。

チカレテきたので、今日はこのあたりで・・・
最後に、右の写真はロシナンテスの支援募集のパンフレットである。
ぜひぜひ「NPO ロシナンテス」にアクセスしていただいて、川原医師が進める活動を知っていただきたいと思う。