スーダン共和国・・・国旗の意味は、赤が革命と進歩と愛国者を、白は平和と未来への希望を、 黒は国名(スーダンとは「黒い土地」という意味)とアフリカ大陸を、緑はイスラムの 繁栄と幸福を表している。人口は約3,100万人。面積は日本の約6.6倍。
アフリカ大陸最大の面積を有する国。首都はハルツーム。

1849年より英・仏などの保護下で奴隷貿易が始まる。
1899年より英国による南北スーダンの分割統治が始まる。いわゆる植民地。
1955年  継続的な南北スーダンの内戦状態が始まる。
1956年  英国領より独立。南部の石油利権をめぐり南部による抵抗が始まる。
独立後における様々な意味での南北の違いや格差、経済発展の格差の不均等が原因となって、その後の長きに渡って内戦が続く。

2002年  南北内戦の部分的停戦合意成立。
2003年  ダルフールでスーダン解放運動(SLA)と正義と平等運動(JEM)などの抵抗が始まる。
      ダルフール地方からの難民及び国内避難民の流出が始まる。

2005年1月 南北内戦の包括和平協定が成立した。

しかし未だにダルフール地方には200万人に達する難民が溢れかえり、南スーダンにおいての復興は先が見えない状態。

イギリスのスーダン南北統治の影が色濃く残るスーダン。
北スーダンは、主にアラブ系でイスラム教。現政権は、アラブ系イスラム原理主義。
南スーダンは統治の影響もあってキリスト教でアフリカ系黒人。
一つの国で、休みの日も違う。北は金曜日、南は日曜日とまったく二つの国が混在している状態。南スーダンでは、その他土着宗教、民族も多数あり問題をさらに複雑している。そして南スーダンには石油資源がある。その利権を巡っても大国を巻き込んでの複雑な側面を要している。
内戦時には主に南スーダンが戦場となり、国連や各国のNGOを南スーダンの首都・ジュバに集結している。

2011年には、南部独立についての住民投票が行なわれる予定。

現在の石油採掘は主に中国の技術で行なっていて、北スーダンにあるポートスーダンまでパイプラインを引き輸出を行なっている。

鮮烈な記録に残る 2001年9月11日 アメリカ同時多発テロ。

その3年前の1998年、在タンザニア米大使館と在ケニア米大使館に対しての爆破テロ。2カ所で224名が死亡。
爆破の影響で周囲の市民など約4000人が死傷した。
この爆破事件の実行犯は未だ特定されていないが、アメリカ政府はオサマ・ビン・ラディンが中心的指導者であるテロ組織「アルカイダ」の関与によるものと断定し、同年8月20日にアルカイダ・キャンプがあるといわれるアフガニスタン東部とスーダン・ノースハルツームにある化学兵器工場を巡航ミサイルにより報復攻撃した。

タンザニアとケニアなのに、なぜアフガニスタンとスーダンへ報復攻撃?
と思ってしまうのだが、その両国であれば当たり障りがないということだろうか?

スーダンに攻撃した「化学兵器工場」は、首都の北にある町中のただの薬品工場だったということである。
ちょうどその時は思い出すと吹き出してしまうけれど、クリントン政権。
そしてクリントンは「モニカ」女性スキャンダルの真っ最中。
スーダンではそれにちなんで犬の名前に「モニカ」という名前をつける人が多いらしい・・・と聞いた。

とにかく複雑なアフリカの国々・・・欧米諸国の力でねじ伏せてきた植民地支配。
日本も第2次大戦時には帝国主義気取りで韓国、中国、遠くインドネシアまで力を及ぼそうとしたけれど・・・
アフリカでは奴隷制度が始まってからの帝国主義の支配者の混沌が根っこにあり、それが現在の混沌へと長く続いていると強く感じる。中東も然りである。
ハルツーム市内北部にあるシーファ薬品工場。1998年アメリカの巡航ミサイルによって爆破された工場は9年経った今も残されていた。
中には避難民だろうか? 勝手に1家族が管理人のように住んでいた。  2007年1月21日撮影。
といっても、今回僕が訪れたスーダン。居候したロシナンテス・スーダンの近所の人たちや子供たち。数々の医療に携わるスーダン医師、地方の世話役の長老さんたち、そして市民、庶民は本当に正直で親切でフレンドリーで、お金を釣り上げることもなく(普通外国人と見るや、お金を何倍も吹っかけてくるのだが、この国ではなかった・・・不思議なほどの正直さだった)・・・とても謙虚で敬虔な人たちだった。

とかく西スーダンのダルフール地方での紛争や南スーダンの混沌が、この日本ではニュースとして伝わってきてスーダンは、今恐ろしいところ、危険なところとなってしまう。確かに僕も撮影中、セキュリティーに捕まり、真っ暗な部屋へ連れて行かれた。
撮影許可書を見せても「これはなんだ?」と言う。しかし撮影許可書と一緒にいた川原先生のおかげでどうにか解放された。
町でも、みんなは明るく写真を撮ってほしいと言う・・・しかし撮っていたら別の人が来て「どうしてここで撮っているんだっ」と詰め寄られもした。それくらい警戒しているということ・・・しかし、みんな明るくて正直に生きている。

ダルフールや紛争地帯の写真を撮って、今の現状を伝えていくジャーナリストカメラマンも絶対に必要だ。
しかし僕は、とかくそのイメージで凝り固まった概念に対しての
「もうひとつのスーダン」を捉えたかった。
そして復興や平和に努力する人々・・・そしてそこに日本人医師の川原尚行という男の情熱と愛情でスーダンの人々と手を組んで一歩ずつ歩んでる姿を伝えたい。
そして「生きていく素晴らしさ、苦難を越えていく素晴らしさ」を、それらを通して少しでも感じてもらえればと思う。
2007年2月4日記